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ショスタコーヴィチ:交響曲 ブログトップ
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レコ芸特選盤を聴いてみる [ショスタコーヴィチ:交響曲]

ShostakovichInbal4.jpg

エリアフ・インバル、ちっとも関心のない指揮者のひとりだった。

図書館で借りてきて聴いた昔のショスタコーヴィチの演奏が頭にこびりついてて、頭脳明晰だがそれだけの人、という印象だったのである。

昔、N響が海外公演でインバルとやったマーラーの交響曲第9番を観たことがあって、その演奏も好かなかった。

同じくテレビで観た、アバド/ベルリン・フィルのほうが良いと思ったものである。

巨匠不在の時代になって、インバルを再評価する動き、あるいは新たな巨匠にしようというレコ芸の思惑もわからないではない。

だが、それにしてもここ最近のインバル絶賛の嵐にはいささかシラケていた。

若かりし頃に聴いたイメージが強すぎたのだろう。

しかしながら、実際に演奏会を聴かれた方々のご感想を拝読するにおよび、どうも昔のインバルとは違うようだ。

怜悧な明晰さに、熱気や情熱のようなもの、貫禄の人間味が増してきた、というのである。

それも名門であるチェコ・フィルとではなくて、東京都交響楽団との演奏でである。

あれよあれよという間に、ショスタコーヴィチの交響曲第4番はレコ芸誌上で賞を受賞。

これは聴いてみなければ、と思い、久しぶりの余裕を使って、じっくりと耳を傾けてみた。

日本のオーケストラは、海外の一流オーケストラと比べて、特に金管楽器に突き出た音が足らない。

全体としてオーケストラの響きはもっさりとしているし、どんなにうまくなったとしても(N響であっても)、ブラインドで聴けば、すぐ日本のオーケストラだとわかる。 

この演奏もそうなのだが、最初聴いてみて、やっぱり日本のオーケストラだなあ、と感じた。

一楽章の最高のクライマックスは、打楽器が良く鳴っていて、理性と緻密さは残しつつも、激情的になりすぎない解釈が気に入った。

ラトルも同じだが、インバルのはより貫禄がある。そうだ、貫禄がある。

テンポは速すぎす、遅すぎず、であるが、どうも呼吸が深い気がする。

落ち着いてショスタコーヴィチの天才を、音として楽しめるというか。録音も艶やか(多少加工しているのか?)。

バルシャイも良かったが、この演奏もまた魅力的なものだ。

面白い現象は、「あの演奏はどうだったっけ?」と思って、試しに聴いてみたコンドラシンの演奏が、ひどく雑に聴こえたことだ。

もちろん、録音のハンデはあるし、狂気という意味ではいまだにコンドラシンが優位だが、日本のオーケストラが、ここまでのショスタコーヴィチを成し遂げる時代になったのか・・・という思いがし、だんだんとその音の威力に圧倒されるようになった。

素晴らしいオーケストラである。

もっさりしている、いいじゃないか。これが日本のローカルの音なのだ。

私は日本のオーケストラはそんなに好きではないのだが(朝比奈隆の演奏を除く)、今回のディスクには全力で挑んだオーケストラメンバーの誇りと自信がみなぎっており、これは賞を受賞するわけだ、と得心したのである。

都響、がんばれ。

朝比奈とのブルックナー以来、応援している。

それよりも前、今は亡きマークとのベートーヴェン(交響曲第9番)もライヴで聴いた。

それ以来、日本のオーケストラの中で一番好きだ!

日本の音を大切にしたい、と思うディスクに出会えたのは福音だった。


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ロジェストヴェンスキーのショスタコーヴィチ:交響曲全集を聴く [ショスタコーヴィチ:交響曲]

 一昨日から咽喉がつかえたような感じと咳があった。寝て起きてみたら見事に気管支炎。熱が出た。体調が悪いときにショスタコーヴィチを聴いても・・・、と思うのだが、何故かショスタコーヴィチに燃えている私はショスタコーヴィチばかりに手が伸びる。 

 ショスタコーヴィチ:交響曲全集に関しては、バルシャイ盤をすべて聴き終え(1番、2番、3番は除外)たので、今回はロジェストヴェンスキー盤の中から好きな曲に限って聴いた。

 私が持っているのは写真にあげた旧ビクター盤(VICC-40001/11)である。かつてBMGも発売していたし、最近ではヴェネツィア・レーベルから廉価復刻盤が入手可能である。リマスタリングの問題に悩まされるのが嫌で、可能な限り過度な音質調整のなされていない初期CD盤を聴くことにした。

 ちなみに、コンドラシンもビクターから全集(VICC-40094/103)が出ていたことがあって、この音質はどうなのだろうか?私はAulos盤とヴェネツィア盤しか知らない。ご教示ください。

 ロジェストヴェンスキー盤の録音はデジタル録音と銘打ってあるが、とんでもない録音状態である。響きが薄っぺらく、弦に豊かさが欠ける。どことなく干からびたショスタコーヴィチの印象がある。その上、金管や木管は弦の音量を超えて突出してくるわ、打楽器はヘッド・フォンが音割れするくらいに炸裂する始末。スピーカーで再生すれば、弦はお風呂の中で鳴っている感じで、配置も定位も全く安定していない。打楽器は衝撃音のように前面に出てきて驚かされるし、金管は耳をつんざくほど。

 それでも、多くの方がこの全集を高く評価し、コンドラシン、ムラヴィンスキー、ロジェストヴェンスキーをベスト3にする評などを目にするたびに、ロジェストヴェンスキーの録音には何かがあるのだろうと思うようになった。

 確かに何かがある。

 弦は泣けるほどに美しい音を聴かせることがあるし、瑞々しいソロ・ヴァイオリン、木管やフルートの美しさは尋常ではない。打楽器も最強打されるけれども、外面的な迫力というよりも内面に深く突き刺さってくるような辛さがある。

 4番。録音は全集中では良好な方である。テンポは若干遅めで、一楽章冒頭から鮮烈であるが、ここはコンドラシンやバルシャイ、それにラトルと比べるとあっけらかんとしすぎているかもしれない。録音に深みがないためだろう。ロジェストヴェンスキーは曲をよく知っているように思うけれども、録音状態がロジェストヴェンスキーの芸術をスポイルしているのが残念でならない。クライマックスは素晴らしい。静かな部分での抒情は聴く価値がある。

 6番も凄い。バルシャイやムラヴィンスキーに演奏スタイルが近いが、もっと音楽は熱狂し、狂気に満ち、凶暴な叫びを上げる。終楽章のコーダは物凄い迫力だ。

 8番。これはムラヴィンスキー(1982年、レニングラード・ライヴ)とコンドラシンの全集中の一枚が最高だと思っているが、ロジェストヴェンスキーのはさらに凶暴であり、狂乱の嵐。血しぶきが飛ぶようだ。耳が痛くなるような金管・打楽器の炸裂をこれでもかと執拗に鳴らし、耳にやさしい瞬間はない。やりすぎかもしれないが、これがショスタコーヴィチの一面であることも否めない。

 10番。解釈は良い。ただ、録音が良くない。弱音部では残響がつきすぎてひどいことになっており、弦が大活躍する音楽だけあって、ロジェストヴェンスキー盤の録音状態は致命的だ。金管も安っぽい。

 11番は二楽章の虐殺シーンの音楽が最高である。遅いテンポでずっしりと鳴らしている。もう少し打楽器にキレがあれば、もっと殺伐とした冷酷な印象になっただろう。ムラヴィンスキーのように。

 13番。録音が全集中一番ひどいかもしれない。1985年の録音なのに独唱・男声合唱はオン・マイク。弦は遠くで薄っぺらく響き、金管・木管は目の前で衝撃音をとどろかせる。さらに全体として録音レベルも低いようであり、音圧も低いし、ダイナミックス・レンジも狭い。シリアスな表現と凶暴なクライマックスを聴かせる凄絶な演奏であるだけに残念。

 15番はオーケストラ自体が小編成であるために、この劣悪な録音もさほど鑑賞に触らない。ムラヴィンスキーよりももっと狂気に満ち、グロテスクである。打楽器、特に小太鼓は銃撃のようですらある。二楽章は遅いテンポで心をこめぬき、三楽章もずっしりとして内容が濃い。終楽章のコーダは様々な打楽器が鳴らす神秘的な音彩が聴きものであるが、バルシャイが聴かせるようなメルヘンではなく、雅楽的な雰囲気をもっと感じる。弱音ですっと流すことがその印象をさらに強めている。

 さて、7番、9番は全集中でも単独で高く評価されてきた名盤である。これらが名盤であることには疑いがないだろうから、私のような者がとくに特記することもないだろう。もっとも、9番は私には録音バランスがおかしすぎるように思え(冒頭の弦の弱さ!)、バルシャイ盤が恋しくてならないが。しかし、内容的には物凄く、解釈が素晴らしい。

 ただ、やはり、このような録音状態で音楽を聴くのは甚だストレスを感じる。金管と打楽器を聴いているような印象がぬぐえない。コンドラシンの録音状態のほうが抜群に良いと思うのは私だけか。解釈は素晴らしいだけに、音質の改善が望まれる(いや、マスターはロシアにあるのであれば、絶望的か)。

 録音のせいで、暴力的な音響になっており、しばらく聴きたくない演奏になってしまった。


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バルシャイのショスタコーヴィチ:交響曲全集を聴く <第14番「死者の歌」> [ショスタコーヴィチ:交響曲]

 ショスタコーヴィチ交響曲全曲を聴く。残すところ、1番、2番、3番のみとなった(これらの曲の試聴記を書くかどうかは今はわからない。ひとりでもご興味のある方がおられれば書いてみたい気もするが、どうですか(笑)?)。

 今回は第14番「死者の歌」である。

 交響曲第14番はマーラーの交響曲「大地の歌」やR・シュトラウスの「4つの最後の歌」を思わせる。ショスタコーヴィチの交響曲による白鳥の歌であり、ショスタコーヴィチなりの死との和解なのであろう。

 ショスタコーヴィチの場合、他の作曲家のように死を美化することはない。死後の安らぎや平安を信じることはない。「死者の歌」は、冷たく、不健康な官能性に満ち、絶望的な虚無に包まれている。

 楽章は11からなり、ソプラノとバスが歌う。オーケストラ編成は室内楽的であるが、カスタネット、ウッドブロック、トムトム、木琴、チェレスタ、鐘、鞭といった多彩な打楽器が用いられている。独唱者二人が歌う歌詞はロルカ、アポリネール、キュヘルべーケル、リルケの作品から採られている。

 各楽章は、愛に死んだ者たちへの十字架、民衆につきまとう死、愛の死、自殺、少年兵の死、心の死、希望の死、圧制者(すなわち死神)の姿とその糾弾、詩の不滅、詩人の死、そして人類に平等に訪れる死を歌う。

 私がこの交響曲を初めて聴いたのは大学生の頃だったと思う。バルシャイが1970年にモスクワ室内管弦楽団を振った録音(VICC-2117)であり、異常な雰囲気、絶望が純化された美しさに魅了された。

 しかし、今、この曲はもっと私の胸に突き刺さり、背筋を寒くさせるようになった。バルシャイの演奏は非情冷酷であり、鋭利な刃物で持って聴く者の胸をえぐり、死ぬほど美しい旋律から青白い光を発して魂を吸い取るかのようである。

 私が印象的なのは、第四楽章の「自殺」である。青白い霊気を放つ不健康な美しさを持った音楽である(以下、訳詩は私訳)。

 「三本のゆり、三本のゆり、・・・十字架のない、わたしの墓の上のゆり。
 ・・・・・
 一本目は、傷口から生えたもの、夕焼けがくれば、このいたましいゆりは血に染まる。
 ・・・・・
 二本目は、虫食いの寝床でもがき苦しむ、わたしの心臓から生え、
 三本目は、その根でわたしの口を裂く。
 どれもわたしの墓の上にわびしく生え、周りには何もなく、その美しさは
 わたしの人生のようにいまわしい。」

 第五楽章は諧謔的な曲想を持っているが、詩は重い。身につまされるとはこのことを言うのだろうか。

 「わたしの身体に、墓の帯を巻きつけよう。
 近親相姦と死の中で、わたしは美しくなりたい。
 殺されなければならない、その者のために。
 ・・・・・・
 薔薇がしおれるように、今日、彼は死んでいく。
 わたしの小さな兵士、わたしの恋人、弟は」

 第六楽章のソプラノ独唱はまるで気狂いのようだ。この歌を大音量でスピーカーから流して聴いていれば、きっとショスタコーヴィチを知らない人は頭がおかしくなったのではないかと心配するだろう。

 第七楽章は不思議だ。アンジェロ・バダラメンティの創る音楽に通じるものがある。アメリカのTVドラマ「ツイン・ピークス」のブラック・ロッジのテーマのようだ(わかる人にはわかる!)。ちなみに、ブラック・ロッジとは死者の魂の集う場所であり、邪悪な魂が巣食う悪の中枢でもある、霊的な場である。

 私はこの交響曲の結びである第十一楽章に激しい興奮を覚える。

 「死は全能。
 喜びの時にも、それは見守っている。
 最高の生の瞬間にわたしたちの中でもだえ、
 わたしたちを待ち焦がれ、
 涙している、わたしたちの中で」

 これは死を賛美しているわけではないと思う。時代に翻弄された作曲者の叡智の眼差しは、リルケの詩を通して、生命を冷たく凝視し、見透かし、ひとつの真理をわしづかみにしているように思う。死はどんな権力者にも、生ある者すべてに訪れる。だからこそ、生命は尊く、理不尽に奪われてよい生命などないのだ、と。

 演奏であるが、バルシャイの1970年盤は私は怖い。この戦慄を名盤とは呼びたくない気がするほどに。これは人間の魂を脅かしかねないほどの力を持った刃物である。ソプラノのミロシニコーワ、バスのウラジミロフはどちらも発狂寸前の歌唱。

 それに引き換え、30年後のブリリアント盤はどうだろう。オーケストラには霊的な力はなく、純化された透明な響きも、異界から発するような青白い光もない。弦は筋肉質で骨太、打楽器は重ったるく、全体にただの「音楽」になってしまった。ソプラノのシモーニも、バスのヴァネーエフも誠実かつ丁寧ではあるが、旧盤の二人には気迫においても、音楽に肉薄せんとする魂込めにおいても負けている。バルシャイの指揮には初演した時のような新鮮さがなく、掌中の音楽を演奏しました、という感じだ。残念だ。 


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バルシャイのショスタコーヴィチ:交響曲全集を聴く <第13番「バービィ・ヤール」> [ショスタコーヴィチ:交響曲]

 

 ショスタコーヴィチの交響曲第13番は、彼の56歳の頃の作品である。反体制派の詩人であるエヴゲニー・エフトゥシェンコの詩に基づいたバス独唱と男声合唱、オーケストラのための作品である。声楽入りの曲は3番にも例があり、32年ぶりの声楽付き交響曲、全楽章の声楽を用いたという点ではこれが最初の曲である。

 「バービィ・ヤール」という題名は13番の一楽章の題名に由来する。これは、かつてキエフ近郊のバービィ・ヤールにおいて、多数のユダヤ人が虐殺された事実に基づいて、エフトゥシェンコが書いた詩に曲をつけたものである。ショスタコーヴィチ自身の命名ではないという。

 二楽章は「ユーモア」、三楽章は「商店にて」、四楽章は「恐怖」、五楽章は「立身出世」というように、エフトゥシェンコの詩を基にした曲になっている。楽章の性格としては二楽章がスケルツォであり、後の楽章は重々しい、10分程度、あるいはそれ以上の時間を要する入魂の音楽である。

 この曲がショスタコーヴィチの交響曲における最高傑作だという意見も聞かれる。たしかに、これは類稀な感動に満ちた音楽である。

 二楽章はどんな権力であろうともユーモアだけは奪えないことを歌い、三楽章は暮らしを支えてきた女性たちのひたむきな忍耐を讃えた静かな感動に満ちた讃歌である。四楽章では再びスターリンの亡霊が現れる。裏切り、密告、理不尽な死・・・。それらを過去にしてはならないことを訴える。五楽章は時代に迎合せず、権力にも屈しなかったガリレオを勇敢さを讃え、時の権力の中で嘘をついて生きていくことの愚かさを糾弾し、立身出世しないことこそ、後の世が認める真の立身出世であることを希望の力を持って歌い上げるのである。

 それにしても一楽章を聴くと私の心はざわつき、強烈な悲しみに支配される(以下、訳詩は私訳)。

 バービィ・ヤールに記念碑はない
 切り立つ崖は荒れくれた墓碑のようだ
 僕は怖い
 僕は今日、ユダヤの民と同じ齢を数える
 
 今、僕は思う、僕はユダヤ人なのだと
 僕は古代エジプトをさまよい
 僕は十字架に架けられて殺された
 そして、今も僕のからだには釘の跡が消えることがない

 ・・・・・

 「ユダ公を殺せ!ロシアを救え!」。高笑いに合わせて
 店の主人は僕の母を打ちのめす

 ・・・・・

 僕は思う、僕はあのアンネ・フランクなのだと
 四月の若葉のように、美しく透き通ったアンネ・・・

 ・・・・・

 帽子をとると僕は感じる
 ゆっくりと白髪になっていくのが

 この僕も、何万という死者の空に響く、絶えまない無言の叫びなのだ

 僕はこの場所で銃殺された老人のひとりひとりだ
 僕はこの場所で銃殺された子供のひとりひとりだ

 ・・・・・

 僕の血にユダヤの血は流れていない
 けれど、僕はユダヤ人のように憎まれる
 荒れくれた敵意で、すべての反ユダヤ主義者たちに
 
 だからこそ、僕はほんとうのユダヤ人なのだ

 バルシャイの演奏は例によって、適度の距離を持った演奏であり、情念を音にするようなことはしない。それでいて音楽を意味深く音化し、この音楽の持つ力を誠実に体現している。バスのセルゲイ・アレクサシキンも合唱も心がこもっており、これだけを聴いていれば実に感動的である。

 しかしながら、コンドラシンがモスクワ・フィルと完成させた全集中の一枚は人類の至宝だ。1967年の
演奏で、音もステレオでありながら荒れている。一楽章の序奏などは豊饒な響きではなく、痩せがちだ。

 しかし、曲が進むにつれて、だんだん物凄くなり、エイゼンの死んだ気になったような歌唱と心から詩に共感しつくした合唱の真摯さに打たれてしまう。コンドラシンの棒はこの上なく素晴らしく、速いテンポで一気に全曲を聴かせてしまう。バルシャイ盤では幾分長いと感じるところでさえ、張り詰めた緊張感でだれさせない。詩には当局の批判をかわすためか、一部差し替えがあるのが残念だ。

  なお、作曲者の息子マクシム・ショスタコーヴィチが1995年にルドルフィヌムで行なったライヴ演奏もある(Supraphon COCO-80450)。テンポを遅めにとった共感に溢れた演奏であり、ミクラーシュの歌唱も素晴らしい。合唱団は録音のせいかオフ・マイク気味のところがあるのが残念だが、気持ちが入っている。実の息子の演奏を聴いてみたい方にお薦めである。            


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ショスタコーヴィチの交響曲第9番 コンドラシンとバーンスタイン [ショスタコーヴィチ:交響曲]

 ショスタコーヴィチの交響曲第9番に遅まきながら開眼しつつある。この小さな交響曲第9番がショスタコーヴィチの闘いの人生を象徴しているようでさえあり、ここにはショスタコーヴィチの作曲家としての良心が感じられるのである。

 バルシャイ盤はとにもかくにも音楽に対する姿勢が誠実であり、色彩感が溢れ、生命力に満ちた楽しい演奏だった。そのせいもあるのか、今まで関心がわかなかったこの曲に俄然喜びを見出すようになったわけ。

 うちにもいくつかあったな、と探して棚から引っ張り出してきたのがコンドラシン盤とバーンスタイン盤。

 コンドラシン盤はモスクワ・フィルを振った全集盤中の一枚。CDはVenezia盤と韓国Aulos盤がある。ヴェネツィア盤は高音域がかなり鮮明であり、音の鮮度が良い。アウロス盤はDSDリマスタリングによって低音が聴き、迫力のある音に仕上がっている。どちらかといえば、アウロス盤が良いが、もっと良いリマスタリングがほしいところだ。

 コンドラシンの演奏は他の諸曲とのつながりが明確であり、極めてシリアスな音楽となっている。一楽章にも何か重々しい威厳とじっと耐えた怒りの感情がある。二楽章もユーモアよりは心の訴えを感じさせる。五楽章はバルシャイ盤のどんちゃん騒ぎのような楽しさに対して、血しぶきを感じさせるような金管打楽器の炸裂と狂気を感じさせるほどのエネルギーに満ちている。これは非常な名演奏だ。

 ただ、個人的な好みからするとまったく三楽章が楽しくない。深刻さばかりが際立ち、ショスタコーヴィチの皮肉なユーモアが生きていない。ショスタコーヴィチはどんな状況にあってもユーモアを忘れない人ではなかったか?その答えは13番交響曲の二楽章の歌詞にあるように思うのだが。

 もうひとつ、バーンスタインの演奏はどうだったか。ニューヨーク・フィルを振った1965年の録音であるが、録音の鮮度がやや悪い。演奏も決定盤扱いされる割に大したことがないように感じた。コンドラシン盤やバルシャイ盤は曲自体の魅力を高めているのに対して、バーンスタインの演奏は鮮烈さに欠け、モノトーンであり、表現自体もカロリー満点の指揮ぶりが瑞々しさをも欠いてしまっているのが残念だ。


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