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マリオ・ブルネロの奏でるバッハ(無伴奏チェロ組曲の再録音) [バッハ:器楽曲]

Brunellobach.jpg

 マリオ・ブルネロ。

 通好みのチェリストなのかもしれない。

 何しろ、その実力に比して録音の数は少ないし、スターを気取ることもない。

 自然を愛し、富士山の頂上で演奏をすることもある。

 試みに、youtubeで検索してみれば、野外でコンサートをしている姿が映し出される。

 こういう演奏家、好きなんだなあ。

 自分のペースで、自分の好きな音楽をこつこつと。

 野心は自分の音楽を創ることだけ、大きなレーベルからアイドルのようにアルバムを作る気はさらさらない、とでもいった風情。

 さて、マリオ・ブルネロの「無伴奏」は昔海外のマイナー・レーベルから一度発売されたきり廃盤。

 待望の再録音が写真の盤である。

 最近は、コクセの独り遊びみたいな、融通無碍の演奏を好んで聴いていたので、

 ブルネロの真摯な演奏には襟を正す思いだった。

 よく歌い、呼吸する。しかしながら、真摯な眼差しは次第に心の深い部分を探り当てるかのように、バッハを通り越して、宇宙と共鳴していく・・・

 一言で言えば、こんなバッハだ。

 最初は聴いていて愉しい。しかしながら、次第に深刻になっていく。

 深刻といっても、それは悲劇ではない。

 自分の心と対峙するような、そんな深さである。

 押し付けがましさはなく、音楽の立派さと豊かさが眼前に展開する。

 16世紀製作のピエトロ・サント・マジーニの音色は渋い。渋いが味がある。 

 特に低音のこく。高音の情感。楽器の音色の素晴らしさが、この演奏をかけがえのないものにしている。

 私は、第6番が一番好きだが、かのカザルスやフルニエと並ぶ名演だと思う。

 カザルスのは、ひたすら人間の巨さを表現し、フルニエが人間の素晴らしさに重きを置くとき、

 ブルネロのは、孤独に身を置く。

 慰めはなく、「あなたも一人、私も一人」と言われているかのよう。

 次第に自分がちっぽけな存在、宇宙に放り出されたような気になる。

 ただ一点気になったのは、ヘッドフォンで聴くと、左から「ジーっ」というノイズが入る。

 このノイズはごく小さなもので、曲によって目立つ。特に静かな部分で。

 デジタル・ノイズなのだろうか。あるいは、録音中の機材の音なのだろうか。

 仕方のないことなのかもしれないが、できれば、こういうノイズは避けてもらいたいものだ。


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BLOG, Home Page閉鎖(休業?)のお知らせ [バッハ:器楽曲]

PierreFournier.jpg

 BLOGをはじめてから、愛聴盤や好きな演奏家について書いてまいりました。

 多くの方にご訪問いただき、また貴重なコメントを賜りました。

 この場をお借りいたしまして、心より御礼申し上げます。

 元はといえば、心のリハビリのような感覚で始めたベートーヴェンの弦楽四重奏曲についての戯言が発端となり、いつの間にか二つのBLOGをかけもちするという(我ながら)大規模なものとなりました。

 好きな音楽や好きな演奏家について書き連ね、また数多くの方々と意見交換ができたことは心の財産となり、少なからず自分の音楽観の変貌、そして音楽の聴き方の変化へと繋がり、今まで関心を持つことのなかった多くの演奏家に興味を持つようになりました。

 そんなこんなのBLOGですが、姉妹BLOGでもあります「弦楽四重奏との歩み」、ホームページともども、今月いっぱいで閉鎖、あるいは長期休業したいと思います。

 実は・・・ここだけの話、2008年度末にそうするつもりだったのですが、本業の仕事のほうも落ち着かず、ついついだらだらと書き続けてしまいました。

 さて、最後にエントリーするのは、バッハの無伴奏チェロ組曲であります。

 私は、愛聴盤のコーナーにも書きましたけれども、普段はカザルスの演奏を好みます。

 ロストロポーヴィチなんかもいいなあ。けっこうどっしりとしていて、豪快な演奏が好きで、チェロなんだから、無骨でゴツゴツしたような、それでいて年輪を感じさせる深みのある音色が好きなのです。

 エンリコ・マイナルディは、そのスロー・テンポに、悠久の彼方に連れて行かれそうになる名品でありますが(DENONの録音のほう)、ちょっと付き合いきれない感がなきにもあらず。

 一頃話題になったツォイテン(ソイテン?)は、快刀乱麻を断つ、という感覚で、鮮やかな演奏ですが、ちょっと違うかなあ。ベスキという古楽器演奏家のものは、もっと違う感じ。

 個人的には自然体で、演奏を聴きながら、演奏家の心の襞に触れさせてくれるようなパフォーマンスが好きなのです。

 最近ようやく出会えたのがピエール・フルニエの演奏です。

 フルニエのDG録音は、早くにOIBP化されたこともあって、随分長い間敬遠して参りました。

 値がはるのが口惜しいのですが、写真にあげた最初期のCDをようやく入手し、痛く心に感銘を残してくれた次第です。

 変なことを言いますが、フルニエって、小田和正の歌みたいな味わいがあるのです。

 枯淡でありながら、永遠に若々しくって、年をとっても、思春期の心を純粋無垢に歌えるような・・・。

 それでいて、それをあたたかく抱きしめて、愛し尊ぶような・・・。

 組曲の6番などを聴いていると、思わずほろっとします。

 お持ちの方は、是非ご一緒に楽しみましょう。私はこの盤が人生の宝物になりました。

 それでは、どうぞお元気で。


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年輪を重ねていくということ [バッハ:器楽曲]

RostropovichBachcello.jpg  

 いろいろと考えることが増えて、自分が専門とする学問分野からしばらく逃げていたのですが、論文を書き上げるという「山」にいざ足を踏み入れてみると、失われつつあったはずの情熱がふつふつとたぎるのを感じています。  

 一本の研究論文を書くという作業は、時間をかけて貯めたデータ、長い間頭を駆け巡った思考、自分の結論を総ざらいする中で、自問自答しながら進んでいくような不思議な感覚があります。  

 私の場合は研究発表を学会ですることよりも、論文を書くことのほうがずっと好きなのですが、それだけではなく、何か論文を書くという作業には私の大好きなクラシック音楽を思わせるところがあって、なおさら面白いのです。  

 たとえば、ある演奏家が自分の長い人生のある時期に達してから、自分がこれまで愛想してきた曲を初めて録音するような感覚。そういった感覚を私は学問にも感じるのです。  

  年輪を重ねて得られるもの、そういうものが学問にも音楽にもあると、私は信じています。  

 先日、以前にも書いたクラシックCDの激安店で、ロストロポーヴィチのバッハ:無伴奏チェロ組曲全曲(EMI)が並んでいるのを見つけました。すでに廃盤になった初期盤で、相変わらず安い値段だったので買ってきました。  

 私はロストロポーヴィチという演奏家に対して何ら思い入れもありませんし、亡くなられたときも「ああ、そうか」と思うだけでした。お人柄の良さや音楽界に遺した大きな足跡を偲ぶことはあっても、彼の遺した録音の中でそう愛聴盤がなかった私にはいささか遠い国の芸術家だったと言えます。  

 その夜ビールを飲んで酔っ払った私は、何の気なしにロストロポーヴィチのこの録音を聴きながら、ぐうぐう眠ってしまいました。  

 夜更けになってから目が覚めると、まだバッハが鳴っていて、眠気もあってうんざりしてCDをしまいました。  

 顔を洗って、それから少し経ってから、しらふになった頭で、もう一度CDをかけてみました。  

 彼の演奏は、かつて聴いたリヒテルとのベートーヴェンの録音などに比べて、技巧もところどころ衰え、渋い印象を受けました。  

 しかし、その音にしばらくの間耳をすませていると、私はふいに芸術家の孤独に襲われました。  

 この録音が初めて登場したとき、世間の評判は賛否両論だったことを覚えています。全くの期待はずれという厳しい意見もありましたし、せめてもっと早く録音してほしかったという意見もありました。   

 私は、といえば、バッハという作曲家に対して、(いまだ)扉が開かれておらず、バッハの無伴奏チェロ組曲といえば、カザルスで十分でした。ですから、まったく関心も湧かなかった。  

 95年に発売されてから、13年目。私はようやく彼のメッセージを紐解くことになったわけです。  

 ロストロポーヴィチは長い時間をかけてバッハを崇め、愛し、そして奏でてきたことでしょう。自分の年輪を刻みながら、その年輪にバッハの音楽をも刻みこんできたことでしょう。  

 彼にとってはこれ以上早くとも、遅くともならなかった。今、この時、この瞬間に勇気を出して録音した。それがカザルス以来のチェロの大家が示した姿勢でした。  

 多分に個人的な告白を秘めたバッハなのでしょう。私には年輪を重ねた芸術という言葉が頭から離れなくなり、ロストロポーヴィチを失ったことを初めて悲しく思いました。

 それはひとりの偉大な芸術家を失った悲しみではなく、自分に妥協せず、自分に許された瞬間を追い求め、その瞬間に自分のすべてを封じ込めようとした人生の大先輩に対する尊敬からでした。  

 私には、このバッハから人間が感じられます。年をとることの大切さや美しさを伝えてくれる演奏です。  

 我が友スラーヴァよ、ありがとう。


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街を歩いていたら、バッハ [バッハ:器楽曲]

 2月末から春休みに入りました。

 この時期、学生にとっては春が待ち遠しい楽しい期間なのでしょうが、私にとっては欝になりやすい期間です。

 まず、自分の人生に対する責任が多い。

 研究発表に向け、様々な学会への投稿準備、論文の執筆、意味不明の雑用の数々・・・。緊張感や責任感が極度に増す時期であり、けして春うららのうきうきするような陽気を楽しめる精神状態ではないのです。

 決まった仕事をしていればお給料のある職業とは違い、完全に創造性と独創性だけで評価・判断される場であり、業績がない人間は本来ならけして研究者として認められない世界です。

 業績がなければ存在意義すらないことを重々わかっている研究者は、必死で闘います。

 春は、その「自分の存在意義を世にアピールし、生き残っていく」ための業績を生み出す期間です。研究者は今が忙しい(はず)なのです。これは、もちろん、研究者としてのモラルによるものかもしれませんが・・・。

 私は、といえば、相変わらずのんびりとしています。二つ、三つ、仕上げなければならない発表準備、論文もあるのですが、あと数日は「休め!」と脳みそが言っています。

 お尻に火がつくまでは、ひたすらブレイン・ストーミングするのが私の常です。

 そのような期間は、家族のために家事手伝いをします。

 私の姉は生まれるときに難産であったため、脳性マヒによる重度身体障害者となりました。

 子供の頃は姉のことでよくいじめられましたし、なんで俺の姉だけが、俺だけが、なんていう思いをしたことがありましたが、今では姉の世話をしたり、姉の笑顔や姉を介護する母の笑顔を見ることが大きな安らぎになりました。

 このようなことは研究の話や音楽とはいっさい関係ないのでしょうが、私は「学問は人格が出る」と思っており、どんな人生経験も無駄にはならないと思っています。

 ひとつの苦労も知らない人の仕事と、紆余曲折経た人の仕事に歴然たる差があるのは、音楽の世界だけでなく、研究者の世界にも当てはまるのではないか?なんて最近は考えるようになりました。

 何の話をしているのかわかりませんが、とにもかくにも、今は充電しています(長すぎるくらいなのですが!)。

 で、今日の話。

 家族の食事の用意をするために、買出しに出かけたついでに、近所の中古CD屋に立ち寄りました。

 ロック音楽が中心で、クラシックはひとつの棚があればいいくらいの扱いなのですが、たまに行くならこんな店、ですね。

 リヒテルのバッハ、『平均律クラヴィーア』全曲が、信じられない値段で売っているではあーりませんか!

 RicterBachVictor.jpg

 もちろん、買いました。

 私は、リヒテルの『平均律』、といえば、インスブルックでのライヴ(中国のPOLOARTSから出ている)が日頃愛聴盤でしたが、この綿密なレコーディングによるクレスハイム宮での録音も素晴らしいですね。

 録音は・・・残響が多めで、ピアノの音が若干こもりがちではあるものの・・・、臨場感のある音ではないでしょうか?

 バッハの音楽について、正面から音楽観、演奏についての議論を展開するのは、30年早いような気がしており、ここではあえて多くを語りませんが、ふっと立ち寄った馴染みの店で、美しい音楽に出会った瞬間、生きててよかった!という思いがするのは私だけでしょうか?

 そんな気持ちを書き留めておきたいと思います。

 姉と聴いたプレリュードが何と美しかったことでしょう。
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ジョルジュ・エネスコのバッハ [バッハ:器楽曲]

 室内楽の深みにどっぷりつかるきっかけとなったディスクの中に、ジョルジュ・エネスコが弾くバッハがあった。私のライブラリの中でもっとも孤独な静けさに満ちた演奏記録である。

 印象に残っているディスクといえば、シェリングのDG盤の温かさ、ユリア・フィッシャーの才気煥発、ズスケのノミで余計な感情をどんどん削ぎ落としていくような厳しい演奏、ラウテンバッハー(ラウテンバッヒャー)のわが心の調べとでも言いたげな風情の演奏と、いろいろある。これらはどれも素晴らしい演奏である。

 エネスコの録音はこれらの演奏とは格段にハンデがあり、まず録音が悪く、ついでに現代の水準からすれば技巧的につらいところがある。

 この録音は、アメリカのコンチネンタル・レコード社というマイナー・レーベルの末期、1948年から49年にかけてエネスコの弟子でもあり友人でもあったヘレン・ダウリングが懇請したことによって実現した録音である。

 中野雄氏がよく書かれている「生活に困窮していた」云々というのは違うようである。氏は録音現場は安いスタジオか誰かのアパートメントかもしれないと述べているが、それも首肯し難い。何しろ当時の水準からすれば豪華な装丁で発売された威信をかけたレコードだったからである。録音の悪さは、テープによる録音ではなく、アセテート盤による録音だったためと考えるのが妥当だろう。

 私にとっては、まことに奇蹟としか言いようのない超然たる演奏である。

 指を鋭角的に置き、ベルベットのような滑らかな音色をつむぎ出す。感情と思想とが完全に融合し、平静かつ無為自然としか形容のない素朴そのものの演奏が展開されていく。聴いた初めの印象は、その録音の頼りなさのために「わびしい」印象を持ちつつも、やがて弦の張りのある音、時に聴かせるきらりと光る音色に背筋が伸びるような気高さを感じ、エネスコという人物の類稀なる精神のたくましさとバッハの残した音楽の素晴らしさとを思い知る。

 有名なシャコンヌを聴けば、最初の一音が鳴り出した瞬間に、自分の心がバッハの音楽の放つ魂の寂光とともに明滅するような錯覚を覚える。聴く者の心はどんどん裸になり、宇宙の中でただ一つの孤独な魂になったような印象を受ける。

 本当に不思議な演奏で、エネスコを聴いた後、今まで良いと思っていた演奏が好きではなくなったり、つまらないと思っていた演奏が輝きを放ち、心に直接語りかけてくるようなことが多々あった。

 2005年、ルミニッツア・ペトレという女流ヴァイオリニストの演奏が発売され、一部で評判になった。彼女もまたルーマニアのヴァイオリニストだ。バッハの同曲では、同年ギドン・クレーメルの新盤がレコード大賞を受賞した。私としては、クレーメルのアプローチは幾何学的な感じさえ受けた。晦渋さ、そして鋭角的な奏法。あまり感心できなかった。斬新な解釈なのかもしれないが、そういうバッハではなく、心のふるさとのようなバッハを好む者にはやはり物足りなかった。

 一方、ペトレの演奏の素晴らしさはエネスコを思わせるものがあった。エネスコ的な素朴で、淡々としたアプローチでありながら、銘器ゴフリラーが聴かせる塩辛い音色が味わい深い。解釈もどこまでも清純。それでいて深い情念や慟哭を見事に音楽に収斂させている。シャコンヌの素晴らしさは凄い。たとえば、春の日のしみじみとした感情、夏の日の愉しい思い出、秋の日の沈鬱な情念、冬の日の心の葛藤、といったようにまるで人生の物語のような演奏なのである。そうかといって、激しく感情移入した演奏ではない。自然とこみ上げてくるという懐かしいバッハなのである。

 随分愛聴したが、最近はまたエネスコを聴くようになった。ペトレにはない魂の孤独と静けさがあり、その独特の高貴な佇まいだけは余人をもって代え難いのだろう。

 ちなみに、私が聴いているのは車一台買える高値がつくコンチネンタル盤からの板起こし盤であり、京都のラ・ヴォーチェが発売したものである。グリーン・ドア音楽出版が復刻したものもあり、そちらの音質も気になるところ。ご教示いただければ幸いです。
 


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