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1953年5月30日の第9(Dream Lifeの新譜) [レコード芸術特選盤を聴く]

FurtwanglerBeethoven9195330.jpg

「レコード芸術」特選盤を聴く(2) 

 ここのところ、ずっと忙しく、さらには数日前から花粉症と風邪が混じったような症状に襲われ、全身の倦怠感と鼻のむずがゆさに苦しんでいた。

 本業の研究のほうも大忙しだった。音楽を聴くのもままならず、再投稿と判定された論文の書き直しに精進。さらに、シンポジウムでの発表準備・・・。

 ちょっと息抜きに・・・と旅行に出かけたのだが、その話はまた今度。今日は久しぶりにフルトヴェングラーのことについて書きたい。

 「フルトヴェングラーの新発見の第9」ということで話題になったCDであるが、最初から「出自が疑わしい」「翌日とされるライヴ録音と同じ」などという意見が注目を引いた。

 さらに、別演奏だとしても、フルトヴェングラーの演奏としては「物足りない」「平凡」といった意見が入り混じり、なかなか好意的な評は見かけられない。

 私の知る限り、「フルトヴェングラー鑑賞記」様が完成度が高いとし、今月発売された『レコード芸術』誌上において、宇野功芳氏、小石忠男氏の御二人が大推薦されている。

 私も一フルトヴェングラー・ファンとして大いにこの第9に感銘を受けた。ただし、三楽章まで。私がもっとも愛する終楽章に関しては、今ひとつの感が強い。

 まず、録音。ヒス・ノイズが云々と色々言われているが、ウラニアのエロイカだとか、SPの復刻盤が楽しめる方には全く問題にならないレベル。ワルターのコロンビア響とのステレオ録音(マックルーアのリマスタリングのもの)と大差のないヒス・ノイズだ。

 音質はデッドで、ウィーンらしい柔らかで陶酔的な残響がない。このことによって、オーケストラの各楽器の出す音がリアルに捉えられているという長所はある。

 演奏は素晴らしい。少なくとも、バイロイトの第9のバイエルン放送局盤だとか、1954年のバイロイト盤よりも数等良く、演奏全体としての完成度は1952年のニコライ・コンサートに匹敵するのではあるまいか。

 肝心なのは録音がその真価を伝え切っていない、ということで、やはりデッドすぎる音質によって、フルトヴェングラーらしい幽玄の響きや背後にある深いものを捉えきれないのかもしれない。デッドといえば、「ルツェルンの第9」もデッドだけれど、あそこには何か別の世界が展開している。

 私が感銘を受けたのはまず一楽章。フルトヴェングラーの指揮はかなり正確さを重視したもので、一つ一つの楽音を丁寧に丁寧に扱っている。これは、フルトヴェングラー・センターが発売したバイエルン放送局バイロイト第9と同じ現象であって、ライヴ録音であるにも関わらず、ライヴの感興よりも、音楽としての完成度を重視しているのだ。

 初めて聴くようなニュアンスも頻出する。再現部に向かう直前で、夢見るような弦の旋律がたとえようもなく美しく奏されているし、スコアにないティンパニが新鮮なニュアンスを与えるなど、これらはフルトヴェングラーの新解釈だと思われる。

 重く、重厚な響きと遅いテンポによって、フルトヴェングラーとしてはかなり客観的なスタイルの演奏だと思われるが、もともとフルトヴェングラーの一楽章はこのようなスタイルだったはずだ。今までの演奏と違うのは、細部に目が届いている、という一点。全体としてのドラマよりも、一つ一つの音の積み重ねにフルトヴェングラーらしい誠実さを感じる。

 二楽章も同じだ。フルトヴェングラーらしい劇的なスケルツォではなく、テンポはやや遅めで、重厚かつ巨大に音を鳴らす。轟然とした響きは今までにないもので、スピード感を求める人には物足りないかもしれない。

 しかしながら、トリオの「はっ」とするような柔らかさだとか、相変わらずのホルンのポエジーには、フルトヴェングラーのロマンが詰まっているし、何より、楽譜を丁寧に鳴らす、ということを心がけた結果としての安定感と完成度が比類ない。細かい走句にもニュアンスが込められていることを聞き逃すべきではない。

 ここまでの楽章を聴いていて、もしもEMIによるスタジオ録音が完成されていれば、このようなスタイルになったのではないかと夢想した。無論、これは妄言であるが・・・。

 三楽章のアダージョは、フルトヴェングラー的な間合いのない、流れの自然な演奏になっている。そのために、フルトヴェングラー的な特徴が薄く、平凡な印象を受けかねないが、私としてはこの演奏をフルトヴェングラーの完成形の一つとして捉えたい。

 余分なものが一切なく、音楽としての美しさをまず優先し、そこにフルトヴェングラーの芸術がもっとも自然な形で調和している。警告の金管も凄みがありながら、音楽的な美しさを持ち、みずみずしい管楽器の音色が魅力的である。弦はつややかで美しい。

 フルトヴェングラーの第9の中でも、これだけ普遍的な形をなした演奏は他にないのではなかろうか(←無責任発言)。

 今回の演奏で一番物足りないのは、終楽章。冒頭の嵐の表現からして覇気がなく、丁寧すぎて狂気が感じられない。

 その分、情緒的な美しさが支配しており、歓喜の主題の美しさから、その盛り上がりにかけてが極めて自然で、感動的だ。

 シェフラーの独唱は、31日の歌唱よりも朗々として立派。合唱はやや遠めで、ノイズが入って揺れることが多いのが本当に残念だ。それに、男声合唱がほとんど聴こえないのは力強さに欠ける。

 アルトを歌うアンダイは相変わらずの大根で、気色の悪いにょろにょろ声とセンスのないポルタメントで、耳を覆いたくなる。

 「神の御前に」のフェルマータはやや短め。物凄い打楽器の爆発が聴きものだが、残響成分が薄いために、音としての現象に留まってしまっている。

 テノールの行進曲。デルモータは美声だが、オンマイクのために、合唱よりも声がでかく、行進曲の盛り上がりが弱くなってしまっている。シンバルだけがうるさく響いてしまう。

 オーケストラだけの合奏部分も、低域がモゴモゴし、切れ味がなく聴こえてしまい、ここではじめて「もっと録音が良ければなあ」といういつものセリフが出てしまった。

 歓喜の大合唱から二重フーガにかけても、合唱が遠く、満ち溢れるような録音となっていないことによって、どこかバランスの悪い印象を受ける。いま少しの残響と合唱の録音がオンであれば、印象は全く変わる可能性あり。

 プレスティッシモは、打楽器、とくにシンバルが痛烈に効いており、52年以上である。会場で聴けばさぞかし・・・。聴衆の拍手は感動的で温かなものである。

 この演奏が1953年5月30日のライヴであるかどうかはわからない。ただ、31日とされる演奏と違うことだけは疑いがない。ピッチがやや高いように感じられるのは、録音に起因するものなのかどうかも不明。

 一つ言えることは、やはりフルトヴェングラーは素晴らしい、ということだ。

 翌31日の第9を状態の良いものを借用できれば、比較もできるのですが・・・。もう少し、この第9については聴き込むことにしたい。


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ジョルジュ・プレートルの「歌う・しゃべる第9」 [レコード芸術特選盤を聴く]

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レコード芸術』特選盤を聴く(1) 

 最近、自分の中で音楽に対する趣味が変わっているような気がする。

 昔も今も、私が最も愛する作曲家はルードウィヒ・ヴァン・ベートーヴェンであり、最も愛する音楽は交響曲第9番だった。

 その音楽の最高の体現者はフルトヴェングラーであって、長いことバイロイト祝祭管弦楽団による1951年の実況録音盤を大切にしてきた。

 しかし、近年のリマスタリング合戦、板起こし合戦に聴き疲れし、さらにはフルトヴェングラー・センターから「真性ライヴ」なるものが発表されると、何か違和感というか、素直に楽しめない自分を発見するようになった。

 レコードは一つの完成された芸術品である、という観点からすれば、修正されていようが、数々の音源の切り貼りだろうが、構わない。感動さえできればそれでいい。それが私のスタンスだ。

 しかし、年を経るに従って、もっともっと多様性を欲するようにもなってきている。フルトヴェングラーを聴けば、これは凄いな、ということになるのだが、これ以外の選択肢はないものかと考えてしまう。

 録音はモノラルで、合唱の声は不鮮明、このような状態のレコードを繰り返し聴くよりも、新しい何かを聴きたくてたまらない。

 以前発売されて賛否両論だったサイモン・ラトル/ウィーン・フィルのベートーヴェンの交響曲全集は、私にとっては大きな宝である。

 この時代に、あれだけやりたい放題やってくれたこと、聴き慣れた楽曲から新しい何かを見つけ出そうとする意欲、そしてそれに応えようとするウィーン・フィルの力奏に私は感激したのである。

 特に第9は、「?」と思わせるような、数々の面白さに満ちている。今の私は、最後のプレスティッシモで大きな芝居をしない指揮者は信用できない。つまるところ、フルトヴェングラーと同じように自分だけのドラマを刻み付けて欲しいのである。

 その意味で、サイモン・ラトルの演奏は、古くはウィレム・メンゲルベルクの演奏を偲ばせる。

 メンゲルベルクのベートーヴェンはあまり話題に上ることも少なくなったが、やはり名演奏である。第9の最後で腕も折れんばかりに急ブレーキをかけ、大きくリタルダンドして終わるという姿は、フルトヴェングラーに唯一つ匹敵するドラマである。

 ラトルの演奏もまたユニークである。合唱に突如として急激な強弱をつけて、管がヒョコヒョコと鳴るだけの音空間を作り出す。こんな演奏を実演で聴いたら、私だったらびっくりするだろう。

 一つのスコアから、常に新しい何かを生み出す。

 この限りにおいて、私はフルトヴェングラーのバイロイト盤を神聖視するのをやめ、聴かなくなって久しいのだ。

 ところで、ジョルジュ・プレートルというフランスの指揮者が最近話題である。来年のニュー・イヤーは再びプレートルの登場であり、そのワルツやポルカの演奏だけで多くの人を唸らせ、さらにはその「評価の見直し」を受けてライヴ録音のCD化がヒットする、という現象は前代未聞である。

 ベートーヴェンの第9が発売されてから随分経たが、最近になってから私はようやく聴くことが出来た。

 少し前からCDの購入意欲があまりなく、このプレートルの第9についてもネットショッピングでカートにポチッとはしていたものの買わなかった。『レコード芸術』を見たら、宇野氏、小石氏ともに大絶賛ではないか。興味を持ってようやく聴くことになったというわけ。

 録音は2006年のライヴ録音にしてはひどい。響きがマスクされているというか、高音域の情報が冴えず、低音がだぶつき気味。考えられる要因はリマスタリングである。おそらく、会場のノイズを除去しようとしたために、何かしらカットされた音域がある。

 そのために迫力はヴェール一枚向こう側で終り、豊かで生々しいはずのオーケストラの音はどこか遠い日のぼやけた記録を思わせる。

 しかしながら、そのような悲惨な状態でも、この演奏の素晴らしさは不滅である。一部の批評で、録音が良くない、と言っても、まだまだましなほうである。

 一楽章からして、物凄い迫力である。オーケストラが出す音は凄絶の一言であり、そこにウィーン風の魅力的な響きが調和している。明るい印象を受けるが、それだけではなく、弦が描く楽想の一つ一つは生きて呼吸し、生きて歌い、生きてしゃべる。

 不思議だ。こういう一楽章は初めて聴く。新鮮なのは「話しかけてくるような」弦だ。打楽器はリマスタリングのせいか迫真的ではないのが残念だが、絶えず自己主張し、再現部冒頭などは威厳のある素晴らしい迫力を聴かせる。

 二楽章も決して一本調子には陥らない。ちょっとした部分に「はっ」とするニュアンスがある。たとえば、打楽器のリズムに強弱をつけたり、トリオにおける濃厚な歌い回しを聴けば、この演奏が過去のどの演奏とも違うオリジナリティーに満ちていることを発見する。古き良き、という言葉をしきりに想起させる。

 三楽章は近年の第9演奏の中でも白眉ではあるまいか。響き自体に「癒し」と気品があり、濃厚な歌というよりも、内面に深く分け入っていくような静けさがある。金管の警告のあたりも意味深く、素晴らしい迫力だ。この浄福の音楽をここまで音の魅力として伝えてくれる演奏も珍しいに違いない。

 良く聴くと、弦はここでもユニークだ。一つ一つの楽想で独特の節回しがあり、プレートルによってどれだけ弓使いが指定されているかが如実に伝わる。

 深刻さではなく、キラキラと明るく、そしてしゃべりかけてくるような(語りかける以上に親しみがある)第9という印象を持った。

 四楽章も素晴らしい。冒頭の破滅からして気合たっぷり。弦の威力も素晴らしい。しかし、例の歓喜主題の盛り上がりでテンポを速めるのは音楽の流れとしては合わない。フルトヴェングラーも速めだが、金管がきっちりとフレーズを吹き切り、壮大である。

 バスバリトンのロベルト・ホルは感心しない。この人のリートは好きなのだが、どうも第9には合わない。アーノンクールの全集盤でもそうだったが、ヴィヴラートといい、感情の込め方といい、シラー(そしてベートーヴェン)の詩には合わない。

 合唱はウィーン楽友協会だが、カラヤン時代のお粗末さとは一線を画し、立派な歌を聴かせてくれた。

 「神の御前に」の辺りのど迫力はCDで聴いても物凄いのだから、実演で聴いたらなおさらだろう。ただし、録音(というかリマスタリング)によって、音に歪みがあり、残念で仕方がない。

 面白いのは、テノールと男声合唱の行進曲で、どんどん加速して、オーケストラだけの合奏になだれ込む、という解釈であり、これはフルトヴェングラーの対戦中のライヴ録音以来だ。

 歓喜の合唱以降は、トロンボーンの唸りが素晴らしい。ただ、二重フーガ直前でも合唱の高音が捉えきれずに歪みが生じるのが残念だ。

 プレスティッシモはやや遅めのテンポでリズムを踏みしめる。終結はさほどの加速はないが、すっと音量を弱めて打楽器群の連打によって壮大に盛り上げていく手腕が見事であった。

 ということで、プレートルってどんな指揮者なんだろう、と思われる方には、彼の類稀なる個性を刻み付けた記録としてお薦めする次第である。『レコード芸術』の特選も誠に首肯しうる評価だった。ただし、音質には過度の期待を寄せるべきではない。

 ベートーヴェンの交響曲全集に発展するようであるが、きちんとスタジオ録音、ないし、きちんとしたレコーディングによってプレートルの至芸を記録してもらいたい。それが切なる願いである。


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