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ムラヴィンスキーの「未完成」 [エフゲニー・ムラヴィンスキー (cond.)]

 エフゲニー・ムラヴィンスキー。

 私の音楽人生でも、フルトヴェングラー、ワルター、クレンペラーらと並び、ベスト5に入る名指揮者である。

 ムラヴィンスキーの至芸を一番最初に聴いたのは、いや正確には、観たのは、NHKの教育テレビで放送したシューベルトの「未完成」とショスタコーヴィチの交響曲第5番のフィルムだった。

 リアル・タイムで観たのではなく、クラシック音楽を愛されている日本史の先生からお借りしたのがきっかけだった。

 先生は倍速で録画なされたらしく、音質は美感が破壊されかねないような金属音だった。

 しかし、私はその劣悪な条件から聴こえてくる解釈の片鱗に戦慄した。

 聴こえるか、聴こえないかのような弱音に、凄まじい轟音を鳴り響かせる強音、指揮の統率の下、寸分の狂いなく従う奏者たち。レニングラード・フィルは、非人間的な魔力を持ったオーケストラだと感じた。

 ダイナミックス・レンジが奈落から天空へと伸びるように広く、金管は灼熱し赤々と燃え上がる鋼のように鋭く、多感な心にズバッ!ズバッ!と斬り込んでくる。

 ムラヴィンスキーの音楽から聴こえてくるのは、天才的剣士の果し合いのような凄絶さを持ちながらも、妖刀の輝きによって、聴く者の魂まで吸収するかのような危うい美しさを孕んでいた。

 さらに不思議なのは、異常と言えるほどの繊細で至純なデリカシーが見え隠れし、この世の孤独と地獄のような音楽を奏でたかと思うと、谷間に咲く一輪の花の美しさを愛でるような思いやりをも感じ、超自然的なるものへの畏怖の念に、頭を垂れさせるのだ。吸い込まれるような感じがする。

 呪縛、という意味では、フルトヴェングラーのような魔術を持った数少ないマエストロであり、スタイルはトスカニーニ的でありながら、極めて濃厚な感情描写を成し遂げる稀有な達人だった。

 先日、1050円で売っていたので買った一枚。

MravinskySchubert.jpg

 メロディアからも発売されているシューベルトの「未完成」をメインに、ワーグナーの序曲二曲とウェーバーの序曲一曲を含むアルバムだ(Altus (ALT053))。

 このCDに収められた演奏はムラヴィンスキーの来日公演の記録であり、録音状態は聴衆ノイズはあるものの、極めて良好である。

 演奏は、「ローエングリン」や「タンホイザー」も素晴らしいが、「未完成」こそ絶品である。いや、神品と言っても過言ではあるまい。

 メロディアから発売されている「未完成」は、ヴィデオで見たムラヴィンスキーのイメージとは程遠い、どこか生ぬるい演奏だった。

 一楽章に聴く、あえかなデリカシー、青白く光る夢幻の響き、爆音のようなアクセント、ウィーンの甘美な夢を冷酷無惨に切り刻み、シューベルトの怒りや慟哭を白日に曝すのようなリアリズム・・・。二楽章の、虚空に儚くただよう生の日の残照、深い暗部へ引きずり込まれそうになるような神秘。 

 そうしたものが全て消えていた。

 しかしながら、このアルバムでは、ヴィデオで戦慄した解釈が、状態の良いステレオで(ある程度は)堪能することができる。

 購入してから何度も聴き直し、そして虜になってしまった。 

 おそらく、実演で聴けばもっと凄かっただろう。しかしながら、実演で聴くことのできない今、この音源は宝であり、人類の至宝と言っても過言ではなかろう。

 私個人としては、マーラーの交響曲第9番の世界を、シューベルトの交響曲においても成し遂げたムラヴィンスキーに深く共感するものである。

 もし、私が「未完成」を指揮するとしたら、形は違えど、目指す方向性は同じになるだろうと感じた次第である。それは「彼岸からの憧れ」という言葉に集約される、もっとも人間的でありながら、もっとも人間的ではない姿となった作曲家の魂の声の結晶化である。


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