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ワルターとフルトヴェングラーのモーツァルト [モーツァルト:交響曲]

Mozart40Walter.jpg

 音楽にも「刷り込み」という現象があるのだという。

 自分が最初に聴いた演奏の印象が強烈すぎて、それが自分のスタンダードとなってしまう現象である。

 さしづめ、私の場合はモーツァルトとブルーノ・ワルターの組み合わせだろう。

 自分が世に生を受けて、もっとも多感な時期に接したのがワルターのモーツァルトだった。

 だから、モーツァルトに夢中になり始めれば、最後は必ずそこに戻っていく。

 世にモーツァルトの名手は数多く存在するが、交響曲第40番に関する限り、ブルーノ・ワルターに敵う指揮者は存在しない。

 それが私の「刷り込み」なのだろう。

 自分にとって興味深い録音として、フルトヴェングラーがウィーン・フィルを録音したものが存在する(CC35-3169)。

 この録音は賛否両論が多いことでも有名である。

 賛美の声はフルトヴェングラーを日頃愛好する方や研究者の方に多い。批判の声はどちらかといえば、ワルター系のロマンティックなモーツァルトを好む方に多いようである。

 批判する方々が異口同音に責めるのは、一楽章のテンポである。せかせかする、速すぎる、人工的だ、というのである。

 私個人としては、その批判は当たらないと思う。原曲はアレグロ・モルトである。フルトヴェングラーはモーツァルトの楽譜の指示の通りに演奏しているのだ、という意見もあるが、私に言わせれば、もう少し(いや、もっと)速くても良いくらい。

 肝心なのは、この速いテンポを支えるだけの芯の強いアクセントが存在するかどうかであって、たとえば宇野功芳氏は、カザルスの劇的な表現に比べて、音楽が生煮えであると手厳しく批判するわけである。

 私はこれはこれで良いのではないかと思う。

 流れるようなフレージング、最初の有名な主旋律をそこはかとなく掲示しながら、音楽を追うごとに従って自然と湧き上がらせて行く手腕は素晴らしいものだと思う。

 二楽章の情感の表出の仕方(一部楽譜の改変で気になる箇所もある、これはワルターも同じ)や、三楽章の中間部でのホルンのつぶくやくようなため息なども、やはり一流の指揮者のものであって、いたずらに批判できるような演奏ではないと思う。

 しかしながら、自分が「好きか?」と問われれば首を傾げ、「感動的か」と問われれば「否」と答えるであろう。

 それが、「刷り込み」だ。

 フルトヴェングラーの演奏に絶えず、意志の存在を感じ、情緒に浸りすぎることもなく、寂寞たる荒涼に身を屈めるような弱さもないことにいささかの違和感を感じる。そこはかとなく見せながらも、モーツァルトの心の強さを感じ、新しいモーツァルト像を突きつけられたような感を覚える。

 私はそのような経験を尊いことだと思う。そして、ずっと自分の手元に置いておきたいとも思う。

 しかしながら、自分にとっての刷り込みはワルターであって、モーツァルトと一緒に泣き、情緒に浸り、寂莫たる荒涼に身を屈め、涙し、人生の最後に微笑するような演奏が好きなのだ。

 やり尽くしている、という点であれば、断然ブルーノ・ワルターだろう。

 写真にあげた1952年のウィーンでのライヴ録音は、一楽章冒頭の主旋律をポルタメントで奏している。他にこのようなCDはなかなかない。そして、終楽章のアンサンブル仕上がりは史上最高であって、カラヤン/ベルリン・フィルの合奏力でさえ敵わないと思う。

 木管の明滅や三楽章中間部のホルンの美しさのどれをとっても魅力的であり、この優しく撫でるような哀感こそ、自分のモーツァルトの原点なのだ、と改めて感じた。

 貴殿の「刷り込み」は何ですか?


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