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ブルックナー:交響曲 ブログトップ
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チェリビダッケ/ミュンヘン・フィルの東京公演(ブルックナー:交響曲第8番)を聴く [ブルックナー:交響曲]

celibidachebruckner8.jpg

 世間はGWで、電車に乗っても家族連れの方が多い。

 にぎやかなのは良い。しかしながら、子供が靴をはいたまま、椅子の上で窓の外を見ているのを、家族の誰もが注意しない姿を目撃する。

 「世も末だ!」と思ってしまう。

 まともにしつけのできない親、しつけられることなく甘やかされてきた子供、このツケが教育機関に回ってくる。

 そんなことを悶々と考えながら、快晴の空の下で、ぶらぶらと散策。

 クラシック音楽の新譜も、いくつか入手。

 その中で、チェリビダッケがブルックナーの8番を東京で振ったライヴが手元にある。

 1990年。チェリビダッケの晩年であり、椅子に座って演奏を始めた頃であろうか。

 この演奏、LDでも発売されていたということである。

 チェリビダッケに全く感心がないわけではないが、LDには興味がないので、そんな情報は知らなかった。

 遅いテンポで、老巨匠が振る、ドイツ伝統的なオーケストラ、ライヴ、とくれば、超名演と評価されるのだろうか。

 私には「凡演」にしか聴こえなかった。

 ブルックナーに心酔しきれていないKitakenが言うことなので、まったく気にかけていただくことはありません。

 ただ、私には、生起のない、大風呂敷を広げて、有難迷惑なくらいに手練手管を駆使した人工的な演奏にしか聴こえなかった。

 ブルックナーの化け物、というのか、自然な呼吸感や音楽自体が語りかけてくるような魅力が皆無。

 どこをとっても、チェリビダッケの世界。ブルックナーではなく、チェリビダッケの音の「博物館」。

 そう、博物館。

 磨き抜かれた音、音、音。それ以上を感じない。

 背景となる音楽世界は、禅の世界のようにモノクロで、抽象的な人工物。

 緊張感がない、とか、スペクタクルがない、とか言っているのではなく、音にしか感心がないように思われる。

 何を表現したいのか、何を伝えようとしているのかがわからないのだ。

 もちろん、チェリビダッケは伝えたいことがあるのだろうが、何か新興宗教の説教を聴いているような気がして、「これなら、わからなくて結構だ」と思えて仕方がなかった。

 ひとつひとつのことに意味を見出すという作業は、緻密で巧みでなければできない。

 その点は素晴らしいのかもしれない。

 しかしながら、わずらわしい、という思いが頭をよぎる。音楽とは流れるものではないのか。音楽の思考回路の中で、情報処理されるべき禅問答なのか。

 EMIのライヴ盤は、さらにひどい。

 磨きぬかれていたはずの音にも魅力がなく、チェリビダッケはこれから沈潜し朽ちていくのだ、と痛感したことを思い出した。

 ちなみに、リスボンで行われたライヴの海賊盤が超名演として知られている。1994年のライヴ。

 これは私も聴いているが、チェリビダッケに覇気やエナジーを感じる。

 ひょっとしたら、晩年のスタイルとして奇跡的にうまくいった演奏なのかもしれない・・・。

 だからこそ、「リスボン・ライヴ」として伝説扱いされるのだろう。

 それでも、朝比奈やヴァント、それにヨッフムのような演奏に魅力を覚えるものである。同じミュンヘン・フィルを振ったクナッパーツブッシュを筆頭に。


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ヨッフムのブルックナー:交響曲第6番 [ブルックナー:交響曲]

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 ブルックナーに冷めた目を持つ私は、ブルックナーの交響曲というと「どれもこれも同じ」という印象がある。「主張」に変化はなく、表現方法に習熟が見られるだけだ。

 こういうタイプの作曲家は学問の世界にもいて、何年経っても同じような内容を禁欲的に繰り返し研究し続けるが、最終的には途方もない巨大なものへと変化する。

 ブルックナーという人間は伝記を読んでも、いわゆる天才的な「楽聖」ではない。彼の音楽の本質はオルガン音楽にあり、それを交響曲へと高めていく努力の結晶が「楽聖」と讃えられるのであろう。交響曲作家としては本来二流の人間が、神への崇高な帰依だけを求め続けた所産が、一連の交響曲へと結集し、前人未到の境地に達したのであろう。

 「二流」といって、ブルックナーを貶しているのではない。ブルックナーがかくも試練多き茨の道を辿ったからこそ、人類未曾有の偉大な軌跡を描いたことを忘れたくないだけだ。

 私がブルックナーの交響曲で畏怖を覚えるほどに感動するのは、何にも増して5番と9番である。最も親しみを覚えるのは8番であり、それに次いで3番に大きな魅力を感じる。

 ところで、6番は、7番に似て、スケルツォと終楽章が弱いが、前半の二楽章が3番や8番を思わせる「わんぱくさ」があって好きだ。

 「わんぱくさ」と言う私もどうかしている。ブルックナーがそれほど好きではない私は、6番の第一楽章の主題を聴くと、しきりに「インディー・ジョーンズ/魔宮の伝説」とか、そんな摩訶不思議な冒険の世界を思い出してしまうのだ。「アマゾンの秘境に、類人猿の名残りを見た!」とか水曜探検隊のテロップとともに流れてもおかしくない旋律だ(・・・ってわからないか(笑))。

 静かなる部分も大自然の中を散策するような気分だし、ひたすら人間の矮小な世界に背を向けていくような印象がある。

 二楽章の沈み込んでいくような味わいは、清涼感すら漂わせる。猛々しい山脈の谷川の清流を思わせる清らかさがあり、清水の味わいや涼しい風に、彼岸からの便りを思わせる。

 三楽章に入ると、主部の戦慄感は見事であるものの、中間部は短く、物足りないし、終楽章はあれよこれよとスルスル流れていってしまう。ひょいひょいしている。思い出したように爆発することはあっても、5番、8番、9番のような有機的なスケールの巨大さはない。

 古今随一の名演奏として、ヨッフムの旧全集中の録音を挙げる方が多い。

 私はヨッフムという指揮者が好きではないが、この全集はなかなか素晴らしいものだと思っている。何より、ベルリン・フィルとバイエルン放送響の力演もあってか、瑞々しい感性とフレッシュなニュアンスに富んでおり、魅力的である。新鮮な果実をほおばるような初々しさを覚える。

 ヨッフムはブルックナー指揮者として功を成し遂げた人物かもしれないが、今聴くといささか軽妙すぎ、鼻歌交じり過ぎの雑さが気になることがある。

 この二楽章の美しさはヨッフムも素晴らしいのかもしれないが、実はヨッフム以上に朝比奈隆のジァン・ジァン盤全集中の録音が好きだったりする。

 弦の熾烈な美しさに、金管の巌を削り取るような豪快さが絡み、ブルックナーの音楽の厳しい最良の部分を掘り出しているように思えてならないのだ。 


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シューリヒトのブルックナーを聴く [ブルックナー:交響曲]

 ブルックナーの交響曲に少しずつ開眼しています。とは言っても、やはり完全には心酔しきれないところもあったりして、いや、それこそブルックナーなのだと納得することもあります。

 ブルックナーは嫌いでした。8番や9番は聴いても、それ以上には何も感じなかった。クナッパーツブッシュが英DECCAに録れた3番、フルトヴェングラーの「ロマンティック」(パレット)を聴いても、全く心に入って来なかった。

 それが、年齢を重ね、世の中のことが多少なりともわかるようになってくると、ブルックナーは日常という矮小な場から、天上世界へと運んでくれるような、天使の羽を与えてくれるような音楽に感じられるようになった。

 それを教えてくれたのは朝比奈隆のジァン・ジァン盤全集であり、オーケストラの優秀さ(CANYONやビクターに聴く演奏よりも、ずっと音に力が漲っている)もあって、胸がわくわくするような躍動美と魂を鼓舞するような開放感にすっかり魅了されてしまった。

 で、最近は夜中になるとぽつぽつと色々なCDを引っ張り出してきて聴き直している。

 ShurichtBruckner.jpg

 ウィーン・フィルの8番と9番。シューリヒトの言わずと知れた名盤である。

 写真は仏EMI製のCDであるが、CD自体のプレスはドイツで行なわれたようである。音質はアナログ的な質感を残したやわらかみと自然さがある。LPで聴けばもっと空恐ろしいくらいの演奏なのではないだろうか。国内盤で出ていたBOXセットの音質も気になるところだ。

 様々な名盤選びの本でも、この演奏はいつも挙げられていた。さぞかし凄い演奏なのだろう、と期待に胸を弾ませながら聴いたのだが、この8番は曲者だった。

 ヨッフムがシュターツカペレ・ドレスデンと遺した録音が私の原体験だったせいか、終楽章の超快速テンポについていけなかったのである。クナッパーツブッシュがウェストミンスターに録音した名盤のほうがずっとわかりやすかった。彼らは私が歩む「道」を拓いてくれたからだ。

 シューリヒトの演奏は、自分でブルックナーの音楽への道を拓かねばならないような演奏である。

 映画『スター・ウォーズ』で、主人公ルーク・スカイウォーカーが師ヨーダを背負って、木々をよじのぼり、跳躍し、疾駆する修行シーンがあるが、その姿を連想させる。シューリヒトは僕のイメージからすると妖精(エルフ)か仙人そのものであって、シューリヒトを背負って、ブルックナーが描いた対位法の峻厳な山々を駆け巡るような思いがする。

 「もっと速く!もっと軽やかに!」シューリヒトの掛け声と共に、アルプスの峰を飛び、宇宙に飛び出し、惑星にしがみつき、天の扉の前に降り立つ。

 それにしても、アダージョの美しさはいまだにこの演奏を超えるものがないほど。改めて聴いてみてそう思った。どんなブルックナー指揮者でも、こんな演奏はできっこないだろう。人間業とは思えないほどのハーモニーの美しさに陶然となる以上に、畏怖を覚える。

 併録の9番も超絶的な演奏であり、9番の凄さを震撼させるような響きで体験させてくれた未曾有の演奏である。

  シューリヒトの演奏は、8番とはまるで違う。ここでは仙人シューリヒトの肉体は消え、霞に溶けてしまったかのようだ。シューリヒトは私たちを包み込み、先の見えない濃霧の中へと誘う。やがてゆっくりと姿を見せるのは眼下に広がる雄大なオリンポスの峰々。

 私たちが見たこともないような超自然的な世界がこれでもかと押し寄せ、私たちの存在はどんどん、どんどん小さくなっていく。ひたすら人智を超えた何かを予感せずにいられないのだ。

 三楽章は腰が軽いという評も聴くが、私にはその軽さがむしろ怖ろしい。この曲はもっとずっしりとやれば凄絶な音響が展開されるのだが、シューリヒトはそんなもんには目もくれず、ひたすら精神の軽やかさを見せ付ける。彼には天使の羽が生えているのだ。人格で聴かせるような趣は晩年の朝比奈と好一対だろう。

 うーん、唸る。彼が全集を録音していたら、と悔やまれる。


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朝比奈隆のブルックナー:交響曲第5番 [ブルックナー:交響曲]

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 朝比奈先生は、渡米してシカゴ響を振るというときも、ブルックナーの交響曲第5番を選んだ。
 
 生前、それだけこの曲を掌中に収め、得意とし、また絶大の自信があったようで、遺された同曲異演の数も多い。
 
 私自身は、といえば、五番は苦手だった。

 何だか物凄い曲だなということはわかっていても、近寄り難いいかめしさを感じていた。
 

 先日、ディスク・ジァン・ジァンによる全集中の一枚を聴いてみた。
 
 それまではクレンペラーウィーン・フィルによる演奏を耳にすることが多かったが、クレンペラー以上の感動を覚えた。

 一度聴いただけで参ってしまったのだ。何という骨太でたくましい音!そして岩を削り取っていくような厳しい音!洗練とは程遠い演奏だが、私はこの演奏に心底惚れこんでしまった。
 
 特に四楽章のコーダの物凄さ。金管の強奏に圧倒されっぱなしであり、胸が膨れていくような感動と興奮とを味わった。宇宙が鳴動するように壮大な伽藍をした天界の大門が開くような印象を受けた。
 
 「朝比奈隆ってこんなにすごいんだ・・・」という思いとともに、ブルックナーの音楽の豊饒さ、巨大さ、深遠さに魅せられてしまった。
 
 つい最近、朝比奈先生が1992年にサントリー・ホールで振ったライヴ録音が再発売された(写真、オケは新日本フィル)。今回はDSDリマスタリングがされており、初出当初は芳しくなかった音質が一新されているという評を見た。価格も1500円であり、いそいそと買ってしまった。
 
 !!!!
 
 これも物凄い演奏である。生き生きとした弦の表情、舞を舞うかのような優雅さ、けしてうるさくならない金管・打楽器の強奏。そして瑞々しい感性と音色の透明さ・・・。雄大なスケールキラキラとした音彩!これが日本のオケか!
 
 ブルックナーの交響曲ってこんなに凄いのかと改めて感動してしまった。
 
 8番や9番は何度も耳にしてきたが、他の諸曲については思い入れがあまりなかった。3番や7番を時折プレイヤーにセットするくらいだった。しかし、この演奏二種を聴いて、交響曲第5番は突然私に語りかけてきた。
 
 年齢のせいもあるのかもしれないが、ようやくにして5番の魅力に目覚めた感がある。
 
 ジァン・ジァン盤の荒削りで岩のような演奏と、この新日本フィルとの、洗練され、澄み切ってキラキラと輝くような神々しさを持った演奏とを聴き比べると、その音楽の深化に驚かざるをえない。
 
 どちらも最高だが、私個人としては、70年代末に録音されたジァン・ジァン盤により強力な魅力を覚える。何と言っても、オーケストラ共々、全員死ぬ気になったような気迫と信念、美化されすぎない峻厳さに、ブルックナーの滋味さと孤高さとを感じるからである。
 
 きっと、ジァン・ジァン盤こそ、ブルックナーの最高の交響曲全集だという方々もおられるのではないかと思う。 
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ヴァントとベルリン・フィルの至芸 ~ ブルックナー:交響曲第8番 ~ [ブルックナー:交響曲]

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 晩年、ヴァントがベルリン・フィルを振った一連のライヴ録音は、名盤との評価が高い。
 
 一番最初にこのコンビを聴いたのはCDで、それもブルックナーの交響曲第9番でだった(BVCC-34020)。 
 
 私にとってソウル・ミュージックになっているのは、シューリヒトがウィーン・フィルと録れたステレオ録音である。
 
 それにしても、このシューリヒトの録音は本当に素晴らしかった。
 
 ブルックナーを全く知らなかった私に優しく清涼感のある空気を吹きかけたかと思うと、一気に巨大で峻厳なアルプスの山々を眼前に広げ、無限地獄のような異空間に誘ったかと思うと、星々が生まれては消滅していく大宇宙の深遠さの中に引きずりこんだ。別世界に連れて行かれるような、ぞっとさせるような思いすら抱かせたのだ。
 
 自分が塵のような存在であることを教えられ、それでいて、心の中には大きな魂とひとつになっていくような安らぎが残った。
 
 ヴァント盤が発売されて間もなく、多くの評論家が絶賛し、ネットでも大評判になった。それで私は期待に胸を弾ませてCDを買った。
 
 結果は、シューリヒトとは全く違う印象だった。音としての現象が未曾有の音響世界を構築し、情や思い入れ、人間味といったものを排除した純粋なブルックナーが鳴っていた。
 
 スコアの読みの深さに脱帽し、スコアをアナリーゼし尽くしてそれを正確に音にすることを目指すことによって到達した世界にひたすら圧倒された。シューリヒト以上に厳格で、峻厳で、孤高で、近寄り難い怖さを持っていた。
 
 シューリヒト、クナッパーツブッシュ、朝比奈隆のような人格で聴かせてしまうような大らかさとか人間味がないことがやがて気になりだし、ヴァントのブルックナーは厳しすぎるという印象はますます強まった(ライヴによるブラームスの交響曲全集も似た印象)。
 
  その後、NHKが放送した最後の来日公演で驚いた。オーケストラは確か北ドイツ放送響だったと思う。ベルリン・フィル盤以上に音の情報量が増し、特にスケルツォの物凄さに度肝を抜かれた。そして何処までも透明でしっとりとした純白の調べに、シューリヒトさえ忘れさせた。突然目の前に純白の世界が広がるような感覚に襲われたのを覚えている。
 
  この時の録音はCDになっているが、あの時テレビを通してだけでも受けた衝撃が再現されるのかどうかが不安で、いまだに入手していない。
 
  ヴァントのベルリン・フィルとのブルックナーの中では、交響曲第8番の演奏に特に唸らされる。
 
 ベルリン・フィルの状態がベストではない、とか、ティンパニ奏者がいまいちである、とか、否定的な評価もあり、私にもそれはわかるのだが、それはそれとしても凄い演奏である。
 
 僕はこのライヴ録音の第四楽章の最後を聴いたときに、クナッパーツブッシュが再来したかのような衝撃を受けたものだ。遅いテンポでずっしりと鳴らし、雄大なスケールで展開し、金管が圧倒的なコラールを響かせる中で、ヴァントは最後の最後でクナの境地にたどり着いたのだという興奮すら覚えた。あれだけスコアを緻密に分析し、頑固親父のように主義を貫き、ウィーン・フィルと仲違いするような人物が到達した境地は、クナッパーツブッシュが私たちに与えてくれたような最高のスケール感を持ったコーダだった。
 
 これに比べると、朝比奈先生の演奏もテンポがやや速い。全体としての印象がどうであれ、8番のここが一番好きな私はヴァントに驚喜したのである。チェリビダッケのリスボン・ライヴよりも好きだ。
 
 ヴァントは8番交響曲をいくつか録音し、CDでも発売されているが、いずれ接してみたいと思っている。 
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